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雑誌『大丈夫』のweb版ページです。

<vol.2>番外編:「誰か」について語ること

2020年は本当に色々なことがあって、

多くの人にとって良くも悪くもきっかけの年になったと思う。

 

わたしにとっては、

「知って、シェアして、意見して、対話すること」

の強さに気づいた一年だったかも

 

例えばモーリシャスの事故について。

ニュースや投稿をシェアしつつも、自分が探す情報に偏りがあったり、その量が膨大だったりして

自分だけで理解するのむず!!って思ったとき、

素直に「これについて知ってる人誰か教えて〜」というストーリーを投稿したの。

 

そしたら、大学で自分とは違うことを学んでいる各方面の友達がそれぞれ知ってることをじゃんじゃんシェアしてくれて、すごい嬉しかったのを覚えてる。

 

そういう体験が重なり

「これってわたしはこうだと思う。あなたの気持ちも聞きたい!あと、間違ってたら教えてほしい!一緒に勉強していこう!」

自分が当事者ではない出来事に対しても、自分に余裕がある時はできるだけこういう気持ちでいようと思った。(この新聞もそのひとつかもね)

 

ただ、そういう風になんのしがらみもなく、思うがままに知ろうとして、シェアして、そのままの意見を述べて、間違ってたら教えて!って言えるのって

わたしがただの大学生であり、利益組織に所属するわけでもなく(バイトはしてるけどね)、

そこまでの社会的地位をもたず、「責任」が無いからこそできることでもあるのかな?

 

ある出来事や他者について第三者の視点から語ることについて、「消費」が絡んだ時、情報の発信者はより注意深くいるべきだと思う。(例えば広告や番組がそうだよね)

 

そのメディアがどれほどの人々に見られるのか、その表現ひとつが大衆の思想に与える影響がどれほどなのか、その影響の一翼を担いながら自らが稼いでいる、ということを理解しなければならないのかなって。

 

「消費」が絡めば、当然重視されるのは

「バズるか/バズらないか」

「売れるか/売れないか」

だと思うけど、

 

「誰か」について描くときに、それが第一優先であることって、とっても危ないことでもあるよね、、?

 

「バズればいい」

「売れればいい」

そのために、メディアで描かれる当事者の目線がカスタマイズされて、時に、無いものとされてしまうことの危うさがある。

 

カスタマイズされたものを受容する側は、それを通して「当事者」を知るわけだけど

もしカスタマイズされたものが当事者の本意じゃなかったら?

 

たとえばテレビのインタビューで、

自分の回答が不本意に切り貼りされされて都合の良いように使われる例とか、ツイッターで物議をかもしてたりするじゃない?

 

これはまだ、「個人」の意見の話だけど

これが「国」「ある社会的弱者」とか、より大きなカテゴリーの当事者だった場合、その危うさはより大きくなる。

ツイッターで炎上してた、cakesというメディアのホームレスの記事みんな読んだ?この危うさの事例のひとつと言えるのかな。※1)

 

だから、消費文化と結びつきながら何かを発信する人は

「売れる/売れない」の前に

それが「正しい」かどうかをより一層考えなくてはいけないのではないかな、と思う。

 

だから、もしわたしが情報発信によってお金をもらう立場だったら

投稿ボタンを押すのにものすごい勇気がいるだろうし、

「どんな人に届くか、どう受け取られるか、どんな影響を与えるか、わからないのって恐ろしいな、、」

と思うんだろうな〜、、

 

本来は「誰かについて語ること」って、それぐらいの責任を伴うことだよね

技術が発達して簡単そうに見えてるけど。

 

でも、そのぐらいの責任を伴うものだったとしても、誰かについて知ること、語ること、意見することはやめたくないな。

 

それは、この自粛期間中に起こったあれこれの中で、

普段は見えづらい「誰か」の痛みを知り

私の生活が当たり前のものではない ということを知り

それらを忘れてしまうことのほうが恐ろしい思考停止だと感じたから。

 

誰もが常に完璧でいられるわけじゃないし、

正しさは必要だけど、ある社会の全員にとって「正しい」ものを発信することは、できないに等しいことだ

 

だから、全員が間違える。

それに対する批判だって当たり前に起こる。

 

でも、真っ先に謝罪したり、記事やコメントの削除などの自主規制に走ったりするのではなく、

まずは指摘された間違いを認めて、

様々な批判にしっかり向き合い、噛み砕いて、そのうえで自分の意見を述べていくのがいいんじゃないのかな。

 

「正しくない」ものを発信してしまうことや

批判されることの怖さをわけにして静かになるのではなく、

 

情報発信には恐ろしさや責任がつきものであることを知りながらも、何かを発言すること、そして間違えることを恐れずにいたい、、

いや〜書いてて思うけど、矛盾してるし、社会に出ればなおさら、超むずいことだよね

 

でも、人と人は同じ「社会」にいるというだけで少なからず影響を与え合っている

どんな他人であれ、自分と繋がりが100%無いことはないんじゃないかな?

 

だから、その社会にいる(いちばん広いものだと、「地球社会を生きている」)という理由だけで

どんなトピックへの参加権もあるはずだよ。

 

フェミニズム研究の東大の上野先生が言ってた

「The personal is political——個人的なことは政治的なこと」※2

というのは、このことにも通ずるのかも。

 

まずは

年齢、経験、国籍、宗教、ジェンダーその他いろいろにかかわらず、どんな人からも常に学ぶ姿勢でいること

そして

間違えたら素直にそれを受け止め、相手の目線から相手を知ろうとすること

 

当たり前のことが

いちばん難しくていちばん面倒でいちばん大切なのかも。

 

これから歳を重ねても、このことを忘れないで生きていけたらいいな〜。   

 

※1  cakes ばぃちぃ「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」2020年11月11日 https://cakes.mu/posts/31615

※2 上野千鶴子田房永子『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!』大和書房(2020)、54頁

<vol.2>ポップカルチャーが好き!第二回『エミリー、パリへ行く』

第二回『エミリー、パリへ行く』(Emily in Paris, 2020)シーズン1/全10話Netflix

 

シカゴに住むアメリカ人のエミリーが、ひょんなことからフランスで働くことになる、というストーリー(ざっくりすぎ)。1話30分位で、サクサク見れたよ!リリー・コリンズと、ファッションが毎度可愛いんだけど、私は1話見て「うん…?」と思った。

 

劇中でよく聞いたのが「フランス人は〇〇」「これがフランス流だよ」のような言葉。

フランスの人が見たらどう思うんだろ…と、勝手にヒヤヒヤしてた。実際、フランス人やフランスで暮らした経験のある人による作品へのリアクション動画やレビュー動画がたくさん投稿されてるんだけど、私が見たいくつかの中では、ネガティブなものが多かったかな。[1]劇中のフランス人のいくつかの描写について「あながち間違いじゃない」と共感している動画もあったけどね! [2]

 

フランスに限らず、「アメリカ人は」「中国では」と、全体的にステレオタイプな表現が多く感じたんだけど、みんなはどうだった?

(あと10話しかないのにエッフェル塔を見ない回がほぼなかったのが、わりとつっこみポイントだったかな…)

 

もちろん、ある国特有の文化や国民性が無いとは言い切れないけれど、こんな風に「国」という大きなカテゴリーで誰かをまとめてしまうのって、危ないかもなーって。

特に、世界の誰もが見れるドラマの中でそれを行うことの影響力は、計り知れないと思うんだよね~。

 

そして、その影響を(無意識にでも)受けてるのがわたしたち。

日本でのレビューを見ていると、私のように感じた人はそこまで多くないみたい。[3](それを良い、悪いと言いたいのではなく!)

それは、「フランス人やアメリカ人など、『外国人』が周りに当たり前に、かつ多くいる状況」が、現時点では、日本で暮らす全ての人には起こり得ないことだからかな?「留学してた」とか「フランス人の同僚がいる」とか、そういう人ばかりではないからね。どうしてもこういうトピックが、「自分とは関係ない遠くの話」になってしまうのは、当然と言えば当然だよね~。

 

だから、できるだけ自分に置き換えて考えてみる。

例えば日本なら、「日本/日本人は〇〇だからね」という言葉のオンパレードとか、雷門がめっちゃ映る、とかかな(笑)さらに、そういうセリフや演出を作っているのが、日本語話者ではない、日本に住んだことがない、「日本人」以外の「第三者」だった場合。怒るとまではいかずとも、「いや日本こんなんじゃねーよwww」みたいなコメントは挙がりそう。

 

この作品では「フランス人」を「アメリカ人」の視点で描いているように見えたけど、その描写の正確さにかかわらず、「第三者の視点から他者を描く」というのはとっても難しいことだよね~。友達との会話で自分もやりがちなので、反省~。

 

 

[1]YouTube

‘ModernGurlz’, “emily in paris sucked (a review)”, (Oct 7, 2020) https://youtu.be/bVbCDvdwg4E

‘Unintentionally Frenchified’, “FALSE French Stereotypes and Culture Shocks! I Emily in Paris Reaction”, (Oct 8, 2020) https://youtu.be/DiujTPWpzJw

‘Not Even French’, “EMILY IN PARIS reaction video (French culture stereotypes and cliches) | What was real or fake?”, (Oct 16, 2020) https://youtu.be/V-4tw9rSaas

‘Justine Leconte officiel’, “We need to talk about EMILY IN PARIS... | Parisian chic | Justine Leconte”, (Oct 17, 2020) https://youtu.be/lCXYfpqSrAo

 

[2]日本語字幕だから見やすいかも~!YouTube Bebechan「フランスのイメージ合ってる?『Emily in Paris』を観ながら答えるよ!」(2020年11月29日)https://youtu.be/9dAgDKNveGk

[3]Filmarksドラマ「エミリー、パリへ行く」https://filmarks.com/dramas/7561/10906

 

 

<vol.2>校則ってなんのため?

高校の頃、スカートの長さで怒られたこと、よく思い出すな~。「痴漢被害を防ぐため」という理由で注意されることって多いようだけど、犯罪の原因を制服に押し付けるのってどうなんだ…?!

みんなの学校にも、程度に差はあれど、理不尽な校則ってなかった?私の周りでは、靴下の種類、カーディガンの色、髪型など、「見た目にかんする校則」が多かったよう!なかには、下着の色まで決められる学校もあるみたい…。

今は思い出の一つとして笑い話になっても、忘れちゃいけないのは、厳しい「ブラック校則」に悩まされ、場合によっては命を落としている学生が多くいるということ。

そもそも、「校則」って何のためにあるんだろう?

 

国連採択の 「児童の権利に関する条約」(日本1994年批准)によれば、校則は「児童生徒等が健全な学校生活を営みよりよく成長発達していくための一定のきまり」。[1]

つまり、未成熟な子どもを保護しながら、自律に向けて学校生活をより良くしていくためのルールだと言えるね。

 

だけど忘れられがちなのが、「ルールは誰かを罰するためのものではなく、幸福になる人が増えるためのもの」という大前提。

 

ルールというものは時に、注意する人の欲を満たすものになりうるのかも。「正しさ」を振りかざすことや、誰かを説き伏せて「管理」することは、気持ちの良いことでもあるよね。先生は、校則という「正義」をもって注意し続けることで「先生=上に立つ者」という上下関係を見出して、「スカートの長さを規則通りに徹底させている自分」というアイデンティティを確認していたのかなーとか、今は思うんだよね~。

 

いつか誰かの上に立つ時が来たら、自分も知らぬ間にやってしまいそうだし、まったく他人事とは言えないんだけどね…。

そこにあるルールを「絶対」として疑わず、それを振りかざすことが「正義」だと思いこんでしまう。

 

そしてルールを守る側も、「これがここでのルールだ」と言われると、揺るがないものに見えるのはいたって普通のことなのかも。

「これってちょっとおかしくない…?」「嫌だな…みんなは嫌じゃないの?」

心の中でそう思っても、自分と同じ気持ちの人がいないように見えればなおさら、そのルールを疑うことは難しいし、迎合してしまうんじゃない?私自身、そういう経験はあるかもな〜。(抽象的に書いたけど、結構どこでも当てはまることなんじゃないかな。学校や部活のほかに、職場やバイト先、サークルとかも?)

 

でも、ルールによってあるコミュニティをよりよくするためには、そのルールが何のためにあるのか、誰かの自由を必要以上に奪っていないか、自分が理不尽に不利益を被っていないか、常に「(校則では、生徒、先生、保護者など)全員で」確認し合うことが大事なのかも~。

 

今回私が読んだ『ブラック校則 理不尽な苦しみの現実』には実際の事例が沢山載っている。[2]読めば読むほど「こんなことが起こっているの?」と、その理不尽さに驚くし、自分だけではなかなか知り得ないことを知るきっかけにもなったよ!(例えばトランスジェンダーの生徒にとっての制服の苦痛や、「同じものを買い揃えること」の経済的負担など。)

 

教育現場に限らず、「誰かの上に立つ人」は特に、主観だけでは分からないことを知ろうとすることは大事だよね。「自分とは違う立場の人を知る」というきっかけとして、みんなも是非読んでみて!

 

与えられたルールや当たり前を疑うというのは、社会経験がまだ少ない中高校生にとって凄く難しいことかもしれないけれど、世界はまだまだ広いよ~ということを知っていてほしい。

そして、それを伝えるのが大人の役目だよねー。

「絶対わからないよ 私たちのことなんて」これ、高校の頃よく聴いてたエビ中の「大人はわかってくれない」の冒頭なんだけど。「大人はわかってくれない」と思った経験があるからこそ、私が大人になったら、子どもたちに「大人はわかってくれない」と思わせたくないな~。

 

 

[1]文部科学省児童の権利に関する条約https://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/jidou/main4_a9.htm

[2]荻上チキ、内田良『ブラック校則 理不尽な苦しみの現実』(東洋館出版社)2018

<vol.2>紅白歌合戦-「伝統」をどうアップデートする?

晦日の風物詩、「紅白歌合戦」。2020年はなんと71回目の開催だったそう!私は何年もちゃんと見ていなかったんだけど、時代が進むにつれて、番組をめぐっておもしろい現象がたくさん起きていたみたい。

 

去年「香水」が大ヒットした瑛人さん(1997生)や、キンプリの岸優太さん(1995生)は紅白が女性と男性で分かれていることを、出演するまで、または出演している時ですら知らなかったそう。[1](二人とも私とほぼ同年代!)

 

そんな彼らに対する周りの反応は「(男なんだから)紅組なわけねえじゃん」とか「ヤバい」とか、「知らない=おかしい」と決めつけているみたい。

 

でも、二人の発言は「私たちが当たり前と思っているものを疑うきっかけ」とも捉えられるよね。

実際、チーム分けについて「時代錯誤的じゃない?」という声が視聴者から多く上がっているみたい!

 

2019年に行われたアンケート調査で「男女対抗を続けるべきだと思わない」と答えたのは全体の42.8%。[2]過半数以下とはいえ、多くの人が「女性と男性」でチームを分けることに疑問を持っている。(「続けるべき」と答えた人の理由も面白いので、ぜひアンケートを見てみて!)

 

しかも、視聴者だけではないんだよね。

2018年の紅白では、星野源さん扮する「おげんさん」が「紅組も白組も性別関係なく、混合チームでいけばいいと思う」とコメントしていたのが印象的![3]

 

そして、これをパフォーマンスで表現していたのが氷川きよしさん。氷川さんは21年間白組として出場されているけれど、一昨年と去年に出演したときの「紅白=女性と男性」の前提に疑問を投げかけるかのような、「女/男らしい」という型にはまらない豪華な衣装がとても話題になっていたね~。[4]

 

じゃあ、なんで女性と男性でチームを分けるんだろう?

音楽ブロガーのむらたかもめさんは、紅白歌合戦を「女性と男性が平等に競える場所」として、その理由について書いている。

放送が始まった1951年は戦後6年、今と比べれば「ジェンダー平等」という言葉からははるかに遠い時代だっただろうけど、女性に参政権が認められたり(1945年。男性のみの普通選挙実施は1925年。)、日本国憲法で女性に男性と同等の権利が保障されたり(1946年公布、47年施行)、「男性優位的な価値観」を徐々にアップデートする、新しい流れにあったと言える。

 

そんな中スタートした紅白歌合戦について、むらたさんは「性別も世代も関係なく平等に競える場[……]男女別に分けてチームにして競わせることによって、男女が平等であるということが自然と国民に理解されていた部分もあったのかもしれない。」と述べる[5]。

 

なるほど、「女性と男性」に分けることでその平等を推し進めるという、時代の価値観が反映されたものだとも考えられるのか~。

 

「女性と男性でチームを分ける」ことのように、「誰かを決まったカテゴリーで分類する」こと自体が問題視されつつあるのは、昔よりはジェンダー平等が推し進められ、女性の活躍の場が増え続けている現代だからこそ、なのかも!

 

こんな風に、型があるからこそできることもあるし、型にはまらないからこそできることもある。

 

「伝統」と「変わり続ける価値観」をどうしたらうまく共生させられるか、というのは、紅白のみならず身近ないろんな場所で考えなければならないこと。

 

その「型」でうまくやってこれた、でももしかしたら、見えづらいところで誰かがもどかしい思いをしていたんじゃないかな?そういう「想像力」が、全員に求められているのかもね~。

 

 

[1] Twitter @gaylife_info 「瑛人が『紅白歌合戦の組分けのルールを知らなかった』てエピソード話してたんだけど、そもそも男女に分かれて競うってことに違和感がある世代なんだと思うし、そのルールを知らないことを『天然』だって切り捨てる、こういうやりとりが古臭い(ってことに気付かない)んだよなぁ~って思ってテレビ消した」(2020年12月30日)https://twitter.com/gaylife_info/status/1344482733142118405?s=20

 ; cyzo woman「King&Prince・岸優太、『紅白歌合戦』が「男女に分かれると最近知った」!? 「普通にヤバい」とメンバー驚がく」(2020年12月30日)

https://www.cyzowoman.com/2020/12/post_316010_1.html

[2] 女性自身「紅白 男女対抗やめるべき4割…放送70年、視聴者意識に変化」(2019年12月19日)https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1811887/

[3]HUFFPOST「星野源が演じる“おげんさん“が紅白に苦言?『性別関係なく、混合チームでいけばいいと思う』」(2018年12月31日)

https://www.huffingtonpost.jp/2018/12/31/hoshinogen-ogensan_a_23630496/

[4] ORICON MUSIC「【紅白】氷川きよし、短時間で衣装3変化で最後飛ぶ 白→赤→金…黒網タイツ姿でも熱唱」(2020年12月31日)https://www.oricon.co.jp/news/2180842/full/

[5]おとにっち「紅白歌合戦を男女別で競わせることには意味があると思う」(2021年1月4日)https://www.ongakunojouhou.com/entry/2021/01/04/174650

<vol.1>ポップ・カルチャーが好き!第1回『セックス・エデュケーション』

わたしたちのいちばん身近な音楽、映画、ドラマ、漫画、雑誌、などなど…ポップ・カルチャーたちの「アツ!」と思ったところ、「これってどうなの?!」と思ったところを紹介していくよ!(ネタバレもたまにあるからごめんね)

あなたからの「これ、やばかったからチェックして!」も待ってますよ〜!

 

第1回『セックス・エデュケーション』(Sex Education, シーズン1/2, 2019~)Netflix

 

わたしの周りでけっこう話題だったので自粛期間中にガーッと見たんだけど

大大大大大名作だった。

なんでもっとはやく見てなかったんだろ!

 

セックスセラピストの母を持ちながらも性の経験がないオーティスが、その豊富な知識を使って高校で「セックス相談クリニック」をはじめる、という、なかなかオープンなテーマだけど、だからこそめっちゃ良かったのかも。

 

コメディ色が強くて、毎回の冒頭のタイトルコールや登場人物のファッション・お部屋がとってもイカしてる!

そんなよくあるティーンドラマかと思いきや

 

家父長制のもとでの結婚、性別の男女二分化、異性愛前提のロマンスにあくまでも自然に、間接的に、疑問を投げかけていて

 

自分がストレート(異性愛)認識でも次に魅力的に感じるのが異性だと限らないことや、

多人種、ビーガン、いわゆる「ちょっとフリークな子」、貧富の差、ドラッグ中毒、などなど

 

その他マイノリティと呼ばれる存在もろもろ全部を取り込んでいる。マイノリティに不寛容なマジョリティ側の人間も描いている。

そしてそれが意識的だとしても意識的に見えず、「多様性描いてますよ!」みたいな、押し付けに感じない。

 

たとえばレズビアンやゲイのカップルが異性愛カップルと同じくらい当たり前に登場したり、(物語の主要キャラだけじゃなくて、学校の廊下でふと映る学生A、Bみたいな人たちも、そのように描かれてたりするの。)

父親と母親、ではなくて、母が二人いる家庭を描いていたり。

 

そういうドラマって日本だったら、いわゆる「LGBTもの」みたいなジャンル分けをされたりするけど、

このドラマでは、「学園ドラマ」という大枠の中でこの全てが起こってる感じが、すごいなと思う。

 

なにより、ストーリーが超おもしろいし

勢いが止まらず、すぐに見終わってしまった!

 

(ここからちょっとネタバレ注意)

わたしが一番グッときたシーン。

 

ちょっとおバカキャラのエイミーが通学バスで痴漢に遭ってしまう。(シーズン2、3話)

 

エイミーがバスの中で「痴漢!」って声をあげた時の他の乗客のけげんそうな顔や

友達に「届出しないと」と連れて行ってもらった警察での痴漢事件の対応 など

そこまでの描写もとても良かったんだけど 

 

エイミーが家に帰ったあとで、自分の部屋で泣き始めるシーンが本当に本当に素晴らしかった。

 

エイミーみたいな性格であっけらかんとして、「いや全然大丈夫!」って言う子だって

「痴漢された」って表立っては言わない子だって

実は怖い思いをしている女性がいるんだよな、ということを感じさせるシーンだったと思う。

 

そしてその後の回、トラウマでバスに乗れなくなっちゃったエイミーと一緒に女友達みんなでバスに乗って登校するシーンは、あ~~~~最高すぎる~~と、涙なしには見れませんでした。”We’re all getting the bus.” シスターフッド!元気出ました。

 

こんな風に、どのシーンからも少しずつ考えるきっかけがあるドラマなんだ〜。

(たとえば、アジア系の出演者はまだまだ少ないのだな〜とかも思ったり。舞台であるイギリスのこの地域にアジア系があまりいないから登場させていないのか、それともそもそもイギリスにアジア系の俳優が少ないのかはわからないけどね!)

 

タイトルの邦訳は「性教育」だけど、まさに!

保健の教科書以上の教科書だし、おもしろいし、全人類見て!!!!!と思った作品でした(特に、日本で育った日本人にみてほしいですな)

 

シーズン3も制作中とのことで、待ちきれないよ〜!

<vol.1>自分の名字どう思う?

結婚したら名前サラッと変わるって冷静に考えたら普通にやばくないか?!

 

私はふとこう思ったことがあるよ。自分の苗字、全国で60人ぐらいしかいないらしくて、珍しいからそれがあだ名になることも多くて、結構アイデンティティなんだよね。

 

気になって周りのいろんな友達に「自分の苗字どう思う?」って聞いてみたけど、実にいろんな答えが返ってきた。

 

私と同じように自分の苗字を気に入ってる人、嫌いな人、相手の苗字になることを人生の一イベントみたいに捉える人、彼女が変えたくないって言ったら話し合って自分が変えてもいいかなって人、絶対に相手に自分の苗字に変えて欲しい人

 

誰もが当たり前に持ってる苗字なのに、それに対してこんなにさまざまな意見があるのに、今の日本の婚姻制度では、女性が男性側の姓に変えるのが一般的だよね。

 

バービーさんも言ってたけど

「結婚したら(女性の)姓が変わるのが当たり前という前提」は

「パートナーの従属物になるような」かんじがする。※

(勿論、そこにしあわせを感じる人もいると思う!)

 

わたしが夫婦別姓制度についてよく考えるわけは、

純粋に自分の苗字が気に入っているということのほかに、

この「前提」へのカウンターみたいなとこもあるのかも。

 

「女子の相手の苗字になることへの憧れ」みたいなのは、少女漫画とか、いろんなポップカルチャーで描かれてきたことじゃない?(詳しい例は挙げられないんだけど、、)そういうのを受容してた身からすると、わたしもそれへの憧れが100%ないわけではないよ

 

ただ、そこに話し合いがあれば良いのに、とおもう。ああー両方名乗れたらいいのになあ。

 

「六戸亜海」じゃなくなるなんて、いままでの私がいなくなってしまうみたい

ただの苗字じゃんと言えば、そこまでなんだけどね。

 

「家族の絆が」「一体感が」「伝統が」

そう言って別姓制度を否定する人がいるけど、(これら、否定の理由にかんする議論はまた今度ね)

夫婦別姓を望む人は、全員にそうしろと言いたいわけじゃないんじゃない?わたしだってそうだよ。

 

だからわたしは、そこに選択肢があって良いと思う。選択肢がひとつ増えるだけで、モヤモヤから解放されてしあわせになる人が増えるのならば。

 

どんなことも、今のままでいいといつまで言い続けるつもりなのか。

なぜこんなに、さまざまなアップデートに不寛容な社会なのかなー。

 

みんなは自分の苗字についてどう思う?よかったら話を聞かせてね!

 

※HUFFPOST「やりたいことを実現するために…。本音の置き場所とバービーさんの関係」

2020年11月17日 https://t.co/YHcPy7qEXh

<vol.1>結婚したら、どうなるの?

「何歳で結婚したいー?」

中、高校生のときにした覚えのある会話

 

昔「結婚してるだろうな」と思ってた年齢にどんどん近づいていくのが、時の流れ早…

って感じなのだけど

あまりにも「結婚」という言葉にリアルさを感じられなさすぎて、まじで、よくわかっていない

 

結婚する理由には、愛する人と一緒に暮らしたい、とか

経済的に一人で生活するのは難しいから、とか

いろいろあるよね。

 

そもそも「結婚」ってなんなんだ!?する前とした後で何がどう変わるんだ!?

 

まず、「結婚」には

役所に届け出をして夫婦になる「法律婚」と

届け出なしでも夫婦と認められる「事実婚」の2種類があるらしい。

 

この2つの簡単な違いは、「法的に保護されているかどうか」。

 

もちろん、「事実婚」でも法的な保護を受けられる事項はあるけれど

どうしてもその数は「法律婚」に比べると減ってしまう。

 

例えばパートナーが事故に遭った時、

法的に保護されていない「事実婚」のカップルには、面会が認められなかったりするらしい。

 

ほかにも、所得税・住民税の配偶者控除が無かったり、配偶者ビザの取得が認められなかったり(パートナーが外国籍であれば特に)するんだって!

子供の親権が母のみに与えられるのも「事実婚」の特徴みたい。

 

それから、「法律婚」で変わるものの一つに名字があるよね。

日本ではどちらかの姓に統一しなければならないけど、実は韓国みたいに夫婦別姓の国もある。

フランスやスペイン、ドイツでも原則として夫婦別姓だったり、アメリカやイギリスでは名字を自由に選択出来たり、国によってだいぶ違うらしい!

 

男性側の名字にすることが一般的な日本では、夫婦別姓のままでいたいという理由から「事実婚」を選ぶ人もいるみたい。

 

結婚して名字が変わった先輩は、免許証、パスポート、クレカ、そのほか色々の手続きが本当に面倒だったって言ってたな〜。そういうのも理由のひとつになりうるだろうね。

 

そして、「事実婚」を選ばざるを得ない人たちもいる。

日本では、同性のカップルに「法律婚」がまだ認められていない。

 

こないだたまたまゲイの友達と、結婚したいかどうかみたいな話をしてた時に言われた

「まあ日本じゃまだ無理なんだけど、制度ないから」

って言葉、すんごいサラッとしてたけど、忘れられないな。

 

わたしが当たり前のように保障されている権利を持たない人がいるのだ、ということを改めて感じた瞬間だった。

 

最近では、同性カップルを男女の夫婦と同じような関係であると認める、パートナーシップ証明が導入されるところも増えている。

 

婚姻制度に比べれば、法的な保障はないかもしれないけれど、

2015年に渋谷区、世田谷区でこの制度が開始されたことは、大きな動きだよね~

 

でも、同性婚や同性愛にまだまだ理解が進んでいない社会であるのは確か。

(足立区の自民党議員の話、みんな知ってる?※1)

 

同性カップルが一緒に住むだけでも断られる事例もいまだにあるみたい。

最近インスタで沖縄にTasukuさん(@itsmetasuku)という方が、

アパート入居の際、「LGBTの方お断りしています」という契約書の文言を見て入居をあきらめたという、ご自身の経験についての動画をシェアしていた。みんなも是非見てみてほしい!※2

 

同性というだけなのに、異性カップルと同じように好きでいるだけなのに、同じ権利が保障されていないなんて、おかしくない?とわたしは思う。

 

結婚ってもっと簡単なことかと思っていたけど

実はいろんな権利が法的に保障されていたり、性別によって認められない権利があったり、

意外と知らないことばかりだったな。

 

親権について、夫婦別姓について、同性婚については特に、ほかの国々の話と比べて考えてみたいところだね。

 

わたしもまだ一冊の本を手に取ったばかりで勉強途中なのだけど、

まだまだ結婚制度について知りたいと思った人は、参照した本をぜひ読んでみて!

とてもわかりやすかったよ~。

 

ていうか、22歳ってもう、大人だよな…

結婚のこともそうだし、税金とか、葬儀や遺産のこととか、全然知らないことがどんどん身近になってきたし、少しずつ知らなきゃだよな~とかね〜

 

参照:杉浦郁子、野宮亜紀、大江千束『パートナーシップ・生活と制度[結婚、事実婚同性婚]増補改訂版』(緑風出版)2016

 

※1  Yahoo!ニュース「『LGBTばかりになると足立区が滅ぶ』東京・足立区の自民党議員が差別発言」2020年10月3日 https://news.yahoo.co.jp/byline/matsuokasoshi/20201003-00201360/

 

※2 Instagram 「【LGBT】「違い」に、愛を。」2020年12月12日

https://www.instagram.com/tv/CIp4_DfDdMd/?utm_source=ig_web_copy_link