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雑誌『大丈夫』のweb版ページです。

<vol.2>校則ってなんのため?

高校の頃、スカートの長さで怒られたこと、よく思い出すな~。「痴漢被害を防ぐため」という理由で注意されることって多いようだけど、犯罪の原因を制服に押し付けるのってどうなんだ…?!

みんなの学校にも、程度に差はあれど、理不尽な校則ってなかった?私の周りでは、靴下の種類、カーディガンの色、髪型など、「見た目にかんする校則」が多かったよう!なかには、下着の色まで決められる学校もあるみたい…。

今は思い出の一つとして笑い話になっても、忘れちゃいけないのは、厳しい「ブラック校則」に悩まされ、場合によっては命を落としている学生が多くいるということ。

そもそも、「校則」って何のためにあるんだろう?

 

国連採択の 「児童の権利に関する条約」(日本1994年批准)によれば、校則は「児童生徒等が健全な学校生活を営みよりよく成長発達していくための一定のきまり」。[1]

つまり、未成熟な子どもを保護しながら、自律に向けて学校生活をより良くしていくためのルールだと言えるね。

 

だけど忘れられがちなのが、「ルールは誰かを罰するためのものではなく、幸福になる人が増えるためのもの」という大前提。

 

ルールというものは時に、注意する人の欲を満たすものになりうるのかも。「正しさ」を振りかざすことや、誰かを説き伏せて「管理」することは、気持ちの良いことでもあるよね。先生は、校則という「正義」をもって注意し続けることで「先生=上に立つ者」という上下関係を見出して、「スカートの長さを規則通りに徹底させている自分」というアイデンティティを確認していたのかなーとか、今は思うんだよね~。

 

いつか誰かの上に立つ時が来たら、自分も知らぬ間にやってしまいそうだし、まったく他人事とは言えないんだけどね…。

そこにあるルールを「絶対」として疑わず、それを振りかざすことが「正義」だと思いこんでしまう。

 

そしてルールを守る側も、「これがここでのルールだ」と言われると、揺るがないものに見えるのはいたって普通のことなのかも。

「これってちょっとおかしくない…?」「嫌だな…みんなは嫌じゃないの?」

心の中でそう思っても、自分と同じ気持ちの人がいないように見えればなおさら、そのルールを疑うことは難しいし、迎合してしまうんじゃない?私自身、そういう経験はあるかもな〜。(抽象的に書いたけど、結構どこでも当てはまることなんじゃないかな。学校や部活のほかに、職場やバイト先、サークルとかも?)

 

でも、ルールによってあるコミュニティをよりよくするためには、そのルールが何のためにあるのか、誰かの自由を必要以上に奪っていないか、自分が理不尽に不利益を被っていないか、常に「(校則では、生徒、先生、保護者など)全員で」確認し合うことが大事なのかも~。

 

今回私が読んだ『ブラック校則 理不尽な苦しみの現実』には実際の事例が沢山載っている。[2]読めば読むほど「こんなことが起こっているの?」と、その理不尽さに驚くし、自分だけではなかなか知り得ないことを知るきっかけにもなったよ!(例えばトランスジェンダーの生徒にとっての制服の苦痛や、「同じものを買い揃えること」の経済的負担など。)

 

教育現場に限らず、「誰かの上に立つ人」は特に、主観だけでは分からないことを知ろうとすることは大事だよね。「自分とは違う立場の人を知る」というきっかけとして、みんなも是非読んでみて!

 

与えられたルールや当たり前を疑うというのは、社会経験がまだ少ない中高校生にとって凄く難しいことかもしれないけれど、世界はまだまだ広いよ~ということを知っていてほしい。

そして、それを伝えるのが大人の役目だよねー。

「絶対わからないよ 私たちのことなんて」これ、高校の頃よく聴いてたエビ中の「大人はわかってくれない」の冒頭なんだけど。「大人はわかってくれない」と思った経験があるからこそ、私が大人になったら、子どもたちに「大人はわかってくれない」と思わせたくないな~。

 

 

[1]文部科学省児童の権利に関する条約https://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/jidou/main4_a9.htm

[2]荻上チキ、内田良『ブラック校則 理不尽な苦しみの現実』(東洋館出版社)2018