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雑誌『大丈夫』のweb版ページです。

<vol.2>番外編:「誰か」について語ること

2020年は本当に色々なことがあって、

多くの人にとって良くも悪くもきっかけの年になったと思う。

 

わたしにとっては、

「知って、シェアして、意見して、対話すること」

の強さに気づいた一年だったかも

 

例えばモーリシャスの事故について。

ニュースや投稿をシェアしつつも、自分が探す情報に偏りがあったり、その量が膨大だったりして

自分だけで理解するのむず!!って思ったとき、

素直に「これについて知ってる人誰か教えて〜」というストーリーを投稿したの。

 

そしたら、大学で自分とは違うことを学んでいる各方面の友達がそれぞれ知ってることをじゃんじゃんシェアしてくれて、すごい嬉しかったのを覚えてる。

 

そういう体験が重なり

「これってわたしはこうだと思う。あなたの気持ちも聞きたい!あと、間違ってたら教えてほしい!一緒に勉強していこう!」

自分が当事者ではない出来事に対しても、自分に余裕がある時はできるだけこういう気持ちでいようと思った。(この新聞もそのひとつかもね)

 

ただ、そういう風になんのしがらみもなく、思うがままに知ろうとして、シェアして、そのままの意見を述べて、間違ってたら教えて!って言えるのって

わたしがただの大学生であり、利益組織に所属するわけでもなく(バイトはしてるけどね)、

そこまでの社会的地位をもたず、「責任」が無いからこそできることでもあるのかな?

 

ある出来事や他者について第三者の視点から語ることについて、「消費」が絡んだ時、情報の発信者はより注意深くいるべきだと思う。(例えば広告や番組がそうだよね)

 

そのメディアがどれほどの人々に見られるのか、その表現ひとつが大衆の思想に与える影響がどれほどなのか、その影響の一翼を担いながら自らが稼いでいる、ということを理解しなければならないのかなって。

 

「消費」が絡めば、当然重視されるのは

「バズるか/バズらないか」

「売れるか/売れないか」

だと思うけど、

 

「誰か」について描くときに、それが第一優先であることって、とっても危ないことでもあるよね、、?

 

「バズればいい」

「売れればいい」

そのために、メディアで描かれる当事者の目線がカスタマイズされて、時に、無いものとされてしまうことの危うさがある。

 

カスタマイズされたものを受容する側は、それを通して「当事者」を知るわけだけど

もしカスタマイズされたものが当事者の本意じゃなかったら?

 

たとえばテレビのインタビューで、

自分の回答が不本意に切り貼りされされて都合の良いように使われる例とか、ツイッターで物議をかもしてたりするじゃない?

 

これはまだ、「個人」の意見の話だけど

これが「国」「ある社会的弱者」とか、より大きなカテゴリーの当事者だった場合、その危うさはより大きくなる。

ツイッターで炎上してた、cakesというメディアのホームレスの記事みんな読んだ?この危うさの事例のひとつと言えるのかな。※1)

 

だから、消費文化と結びつきながら何かを発信する人は

「売れる/売れない」の前に

それが「正しい」かどうかをより一層考えなくてはいけないのではないかな、と思う。

 

だから、もしわたしが情報発信によってお金をもらう立場だったら

投稿ボタンを押すのにものすごい勇気がいるだろうし、

「どんな人に届くか、どう受け取られるか、どんな影響を与えるか、わからないのって恐ろしいな、、」

と思うんだろうな〜、、

 

本来は「誰かについて語ること」って、それぐらいの責任を伴うことだよね

技術が発達して簡単そうに見えてるけど。

 

でも、そのぐらいの責任を伴うものだったとしても、誰かについて知ること、語ること、意見することはやめたくないな。

 

それは、この自粛期間中に起こったあれこれの中で、

普段は見えづらい「誰か」の痛みを知り

私の生活が当たり前のものではない ということを知り

それらを忘れてしまうことのほうが恐ろしい思考停止だと感じたから。

 

誰もが常に完璧でいられるわけじゃないし、

正しさは必要だけど、ある社会の全員にとって「正しい」ものを発信することは、できないに等しいことだ

 

だから、全員が間違える。

それに対する批判だって当たり前に起こる。

 

でも、真っ先に謝罪したり、記事やコメントの削除などの自主規制に走ったりするのではなく、

まずは指摘された間違いを認めて、

様々な批判にしっかり向き合い、噛み砕いて、そのうえで自分の意見を述べていくのがいいんじゃないのかな。

 

「正しくない」ものを発信してしまうことや

批判されることの怖さをわけにして静かになるのではなく、

 

情報発信には恐ろしさや責任がつきものであることを知りながらも、何かを発言すること、そして間違えることを恐れずにいたい、、

いや〜書いてて思うけど、矛盾してるし、社会に出ればなおさら、超むずいことだよね

 

でも、人と人は同じ「社会」にいるというだけで少なからず影響を与え合っている

どんな他人であれ、自分と繋がりが100%無いことはないんじゃないかな?

 

だから、その社会にいる(いちばん広いものだと、「地球社会を生きている」)という理由だけで

どんなトピックへの参加権もあるはずだよ。

 

フェミニズム研究の東大の上野先生が言ってた

「The personal is political——個人的なことは政治的なこと」※2

というのは、このことにも通ずるのかも。

 

まずは

年齢、経験、国籍、宗教、ジェンダーその他いろいろにかかわらず、どんな人からも常に学ぶ姿勢でいること

そして

間違えたら素直にそれを受け止め、相手の目線から相手を知ろうとすること

 

当たり前のことが

いちばん難しくていちばん面倒でいちばん大切なのかも。

 

これから歳を重ねても、このことを忘れないで生きていけたらいいな〜。   

 

※1  cakes ばぃちぃ「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」2020年11月11日 https://cakes.mu/posts/31615

※2 上野千鶴子田房永子『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!』大和書房(2020)、54頁